当院初代病院長の古居亮治郎は、昭和10年、刈谷町字東陽町(現:刈谷市東陽町)に外科医院を開業、地域医療の理想を求め邁進していた。しかし、昭和16年に太平洋戦争が勃発すると医療物資にも困窮することになった。古居が抱いていた「アメリカで最も優れた総合病院の一つといわれるメーヨークリニックに負けない病院をつくりたい」という夢もついえるかに思われた。
苦学して成長し、のちに豊田会初代理事長となる豊田自動織機製作所社長(当時)の石田退三は、かねてより社会貢献に関心を寄せていた。特に医療分野での貢献は大きく期待されるところであった。「経済の復興を待って私の望むような病院にしてほしい」という古居の夢を託されて、古居医院を譲り受けた。古居の理想とする地域医療への思いと石田の地域社会への貢献の思いが共鳴したのだった。昭和18年、こうして古居は新装の豊田病院の病院長に就任、診療活動に励むうち終戦を迎えた。
戦後復興とともに自動車関連産業は大いに躍進し、刈谷市の人口の増加とともに総合病院の開設を市民は希求していた。昭和37年3月7日医療法人豊田会創立総会にて、刈谷市と豊田系7社(豊田自動織機製作所〈現:豊田自動織機〉、日本電装〈現:デンソー〉、トヨタ車体、愛知工業〈現:アイシン精機〉、豊田工機〈現:ジェイテクト〉、民成紡績〈現:トヨタ紡織〉、愛知製鋼)および7社健康保険組合による医療法人豊田会の設立が承認され、初代理事長には石田退三が就任した。