刈谷豊田病院は開院以来、地域住民の期待を担い、経営は順調であった。258床の病床と10科の診療科があり、当時の医療法による総合病院としての機能を有していたことで、昭和41年愛知県知事より総合病院の認可を受けた。これにより、診療報酬明細書が診療科ごとに作成されることになった。なお、平成8年の医療法改正により総合病院の規定は廃止された。
昭和41年1月5日、石田退三理事長に代わり医療法人豊田会第2代理事長として大島鈴松が就任した。大島は初代の意を継いで豊田会の運営にあたった。同年12月25日には77歳となった古居亮治郎病院長が退任、翌日大野道夫が第2代病院長に就任した。昭和43年5月11日、大島理事長の退任を受けて初代理事長の石田が第3代理事長に就任した。石田理事長は昭和54年7月23日まで務め、第4代理事長には白井武明が就任、同年10月1日には大野病院長に代わり第3代病院長として小谷彦藏が就任した。
HISTORY病院の歴史
昭和44年4月に東病棟(旧1棟)を開棟し、一般病床数は320床になった。以降昭和46年に東病棟(旧1棟)を増床し人工腎透析室が移設され375床に、昭和55年にも東病棟(旧1棟)を増床し436床、昭和56年にはCCU、CT、血管造影撮影室など最新の設備を誇る3棟が開棟され518床に、昭和58年には伝染病床30床を増やし、病床数561床の規模となった。昭和55年には広域第二次救急病院に指定されている。こうした増床に伴い医療スタッフも充実がはかられた。昭和58年1月には刈谷総合病院と名称を変更、名実ともに地域医療の中心として機能することになった。
昭和45年からは職員間の意思の疎通をはかり、情報を共有する手段としてB5判4ページの「病院だより」を発刊した。これによると囲碁や野球部などの互助会クラブの活動、スポーツ大会や慰安旅行など、職員の福利厚生面の充実が窺える。のちに「病院だより」はA4判でカラーページも配した季刊誌になり、多いときは36ページ立てとなった。平成14年の113号からは「SEASON」とタイトルを変更、号を重ねて平成26年4月には第161号を刊行している。
病院規模が大きくなるに伴い、医療の高度化と専門性に優れた知識や技量、経験をもつ医師の在籍が多くなった。これにより刈谷総合病院は徐々に各学会の認定施設となっていった。昭和58年の整形外科学会をはじめとして眼科学会、消化器内視鏡学会、小児科学会、泌尿器科学会、麻酔学会、耳鼻咽喉科学会、消化器病学会、脳神経外科学会などである。医療の専門性をさらに究め研鑽が積まれることになった。看護の面では昭和63年に基準看護に特三類看護(2対1:患者2人に対して看護職員1人が雇用されている)の承認を1棟3階と2棟3階で得、より良い看護の提供が認められた。
昭和58年2月には第1回院内研究発表会が開催された。診療科以外の部署からも発表があり、問題意識と成果の共有がはかられた。
また、新しい手技や機器の導入により、提供する医療サービスが一段と充実した。昭和59年には高気圧酸素治療を開始、昭和61年には放射線治療装置の使用が認可、翌年、在宅酸素療法指導管理が承認され、平成元年には体外衝撃波腎尿管結石破砕施設の使用が許可された。
昭和47年8月には院内で働く職員の子どもを保育するこばと保育園が病棟の一室に開園、2人の保母を配し4人の子どもたちが入園した。0歳児から就学するまでの子どもが対象であり、仕事と子育てが両立できると利用者に好評であった。翌年には独立した園舎が完成、保育環境が整えられた。
昭和58年4月、3棟の病棟増設に伴い、住吉町に土地を借用して園舎(敷地面積956m²、建物面積359m²)を新築、園庭に遊具も設置し年間行事も充実させた。昭和63年には保母12人、園児44人であった。保護者が安心して子どもを預けて働ける環境にあるとして、院内保育園の存在は優秀な職員の雇用に貢献している。子どもたちものびのびと集団生活を楽しみ、成長している。
昭和55年4月、豊田准看護婦学院は豊田准看護学院に名称を変更した。昭和58年には私立専修学校の認可を受け、各種学校から医療高等課程准看護学科の刈谷准看護高等専修学校となった。中学校卒業者を対象に修業年限は2年、卒業と同時に国家試験の受験資格が与えられる。第1回入学式は4月4日に行われ、34人が入学した。
専修学校は実践的な職業教育、専門的な技術教育を行う教育機関である。発足当時は専任教職員4人(昭和60年より5人)、兼任講師45人(昭和60年より80人)の体制であった。医師や看護婦の指導で専門科目を、教養科目として英語・国語・数学・社会・体育を学んだ。入学式、戴帽式、夏期鍛錬や研修旅行、球技大会などが開催され、学生たちは学校生活を楽しみつつ勉学に励んだ。
1970年代にコンピューターが登場して以来、IT(情報技術)の進展は目覚ましく、事務作業のOA(オフィス・オートメーション)化が進められた。
刈谷総合病院では昭和58年4月、コンピューターシステム導入のためEPD準備室を設置した。翌年1月にコンピューターによる外来の医事業務が本格稼働、同年4月からは病棟医事業務もコンピューターで処理することになった。昭和60年から薬品在庫管理、用度業務、ファクシミリやワードプロセッサの導入、昭和62年には職員給与計算事務の電算化、固定資産のシステム運用を開始、部門別原価計算、病歴や薬剤、給食管理システムの開発を手がけるまでになった。こうした取り組みが後のIT化推進の基礎となった。